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【杉原千畝まとめ】命のビザを発行して6000人のユダヤ人を救った日本人

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日本人にはあまり知られていませんが、ビザを発行したことにより6,000人ものユダヤ人を助けた日本人が過去にいました。

その人の名前は杉原千畝。

現在でも多くのイスラエル人から感謝されている人物です。

この記事では、杉原千畝がどういう経緯で6,000人以上のユダヤ人を救うことになったのか、歴史的背景を交えながら紹介していきたいと思います。

目次

杉原千畝はビザを発給することでユダヤ人を救った

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杉原千畝は日本の外交官でした。

1940年にリトアニアの「カウナス」の日本領事館に赴任していたとき、ナチスドイツの迫害を受けて逃げてきユダヤ人に対して日本への通過ビザを発給しました。

通過ビザとは、日本から第三国へ行くことを条件として、日本への入国と既定の日数の滞在を許可するビザのことです。

杉原千畝がユダヤ人に対して3,000以上の日本通過ビザを発給したことによって、6,000人以上の人々が救われました。

当時は1人1つビザを持っている必要はなく、1つのビザに他の人の名前が記入されている場合、その人たちに対しての効力がありました。

この通行ビザのおかげで多くのユダヤ人の命が助かったという事実から、杉原千畝が発給した日本通過ビザは「命のビザ」と呼ばれているよ!

杉原千畝は東洋のシンドラーとも呼ばれた

杉原千畝は、大勢のユダヤ人を助けた事実から「東洋のシンドラー」とも呼ばれています。

ここでいう「東洋」とは東アジアのことを指し、「シンドラー」とは実在した人の名前です。

シンドラーの本名は「オスカー・シンドラー」で、杉原千畝のように大勢のユダヤ人の命を救った人として有名なドイツ人です。

シンドラーはポーランドで経営していた軍需工場で、ユダヤ人を雇うことによってユダヤ人迫害から守りました。

その数は1200人とされ、その時に提出されたユダヤ人のリストを「シンドラーのリスト」は呼ばれています。

「シンドラーのリスト」という名前で映画化もされています。

杉原千畝が命をビザを発給することになるまでの歴史的背景

迫害から必死で逃げていたユダヤ人

1939年9月1日、第二次世界大戦が開戦しました。
ナチスドイツがポーランド侵攻し、ポーランドの大部分を占領します。

この占領によりポーランドに多く住んでいたユダヤ人は避難民として近隣の独立国であるリトアニアに安全を求めて移動しました。

しかし、1940年には、リトアニアはソ連に編入されます。
西側からはナチスドイツ、東側からはソ連に挟まれる形となったため、ユダヤ人たちは一刻もその場を離れる必要がありました。

ユダヤ人は迫害から逃れるために、「トルコを通り、パレスチナに行くルート」を使う人がもともと多かったのですが、リトアニアのトルコ政府がユダヤ人に対してビザの発給を拒否するようになりました。

また、リトアニアには退避勧告が出ていたため、ほとんどの国の大使館や領事館は閉鎖されていました。

「日本の通過ビザ」がユダヤ人にとっての唯一の希望

リトアニアにあるいろんな国の大使館や領事館が閉鎖していた中、日本領事館はまだ開いていました。

この時、ユダヤ人たちがナチスドイツからの迫害から逃れるために残された道はたった一つ。

「シベリア鉄道を使い、ソ連(現ロシア)を横断し、極東へ移動。その後船で日本に渡り、アメリカなどの第三国へ行くルート」だけでした。

そして、そのルートを行くには日本領事館で発給される「日本の通過ビザ」が必要不可欠でした。

日本の通過ビザを手にれるために、大勢のユダヤ人はリトアニアの日本領事館を訪れました。

杉原千畝が下した決断

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ある朝杉原千畝が目覚めると、カウナス日本領事館前に大勢のユダヤ人がつめかけてました。

そこにいたユダヤ人たちは、どうにか日本通過ビザをもらうために日本領事館に来たのです。

しかし、杉原千畝が赴任していたリトアニアのカウナス領事館の目的は、ドイツやソ連などを中心に東ヨーロッパの国々の動向を探るための情報収集のためでした。

当時ドイツとソ連の戦争の状況をいち早く知りたかったからです。

そのため、リトアニアの領事館でのビザの発給は、当時ポーランドの諜報期間の人用にしか想定されていませんでした。

「ユダヤ人たちにビザを発給することは想定されていない」のですが、大勢のユダヤ人が助けを求めて来ているのを無視するわけにもいかないので、杉原千畝は日本領事館に来ていたユダヤ人何人かを領事館の中に入れて、話をしました。

ユダヤ人

このままだと命が危ないです。
海外に出国できるようにビザを発行してくれませんか?

その後すぐに杉原千畝は、ユダヤ人たちにビザを発給したと仮定し、日本へ行ったユダヤ人たちが第三国へのビザを取得できる日数を計算した上で日本政府に連絡をとりました。

杉原千畝

ソ連滞在が20日間、日本滞在が30日間の計50日間の日本通過ビザを発給してもいいですか?

しかし日本政府から返ってきた返信は期待通りではありませんでした。

日本政府

入国先がちゃんと決まっていて、ちゃんと旅費がある人のみ通過ビザを発給しることを許可する。

この条件は、この時のユダヤ人だけでなく、日本の通過ビザを取得する全ての人は、滞在先の国の入国許可が下りていることが条件となっていました。

想定はしていたものの、この答えが返ってきたときに杉原千畝は迷いました。

外交官という立場である以上、日本政府の命令には従わなくてはならない。
でも、従ってしまうと頼ってきたユダヤ人が殺されるのはほぼ間違いない。

だが…ユダヤ人を助けることができるのは、自分の決断にかかっている。

杉原千畝は奥さんに「ビザを発給しようと思うがどうだろう。」と尋ねたところ、奥さんも「どうぞそうしてください」と了承しました。

こうして杉原千畝の出した答えは「人道上どうしても拒否することはできない」と日本政府の命令を無視して、ビザの受給資格を満たしていないユダヤ人に対してもビザを発給するというものでした。

「条件を満たす人のみビザの発給を許可する」という命令に対して杉原千畝は抗議文を送ることはしませんでした。
そうすることにより、抗議した後、杉原千畝が発行したビザが全て無効になる恐れがあったからです。

その後、日本からもソ連からも何度もリトアニアからすぐに出るようにと退避勧告を何度も受けながらも、ユダヤ人に対して1か月間ビザを発行し続けました。

一日中ビザを手書きで発行し続けていたので、杉原千畝の手は痛んできていました。

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途中からは、ゴム印を作り、一部のみ手書きにするようになり、さらにビザを発行するスピードは上がりました。
1940年8月31日、日本政府の退去命令によりリトアニアを去る日。
杉原千畝は電車の中でも発車直前までビザを発給し続けました。

そして電車が発車した時、「許してください。私にはもうビザを書くことができません。みなさんのご無事を祈っています」と駅にいたユダヤ人に対して頭を下げました。

そこにいたユダヤ人たちは「スギハラ。私たちはあなたをわすれません。もう一度あなたにお会いしますよ」と叫んだそうです。

命のビザを手にしてリトアニアを後にしたユダヤ人の行方

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杉原千畝から日本通過ビザを取得した人全てが日本に行くことができませんでした。

ソ連を通るためにはシベリア鉄道を利用するしかありませんでしたが、シベリア鉄道を利用するためには現金での購入が必要でした。

急いで逃げてきたりしていたユダヤ人には手持ちのお金を持っていなかった人も多く、そういう人たちはお金を払うことができないため電車で移動することができませんでした。

また、無事にシベリア鉄道でユーラシア大陸の東側に来たユダヤ人もすぐに日本へ行くことはできませんでした。

日本政府が大量の難民が日本に来ることを嫌がったためです。

杉原千畝の後輩たちも協力してユダヤ人を救った

しかしここでは、杉原千畝の後輩たちが奮闘し、日本へ行く船への乗船許可を出しました。

杉原千畝という名前だけが有名ですが、たくさんの人の協力があってユダヤ人たちは無事に日本に行くことができました。

杉原千畝が発給したビザにより助かった人々は、リトアニアを離れ、ソ連(現ロシア)をシベリア鉄道に乗り通過し、神戸にたどり着きました。

日本に到着した後多くのユダヤ人たちは

  • アメリカ
  • カナダ
  • イスラエル

に移動しました。

他にも

  • イギリス
  • オーストラリア
  • ニュージーランド
  • 中国
  • 南アフリカ

などの国に散っていきました。

後日日本政府は、ビザの条件を満たしていないユダヤ人難民が大量に押し寄せたことに対して杉原千畝に対して非難しましたが、結果として多くのユダヤ人を助けることにつながりました。

リトアニアにいたユダヤ人は迫害された

一方悲しいことに、リトアニアは翌年の1941年の8月にナチスドイツに占領されます。

ドイツがリトアニアを占領してからすぐにユダヤ人の迫害が始まり、1944年まで続きます。
特に占領してから1941年の年末までの迫害は大規模でした。

当時リトアニアには約21万人ものユダヤ人が住んでいましたが、ナチスドイツによる迫害により約19万5千人もが犠牲になったとされています。

杉原千畝は今でもイスラエルのユダヤ人に感謝されている

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杉原千畝の決断によって、多くのユダヤ人が助かりました。
杉原千畝が命のビザを発給した事実は現在でもユダヤ人が多く住むイスラエルで語り継がれています。

イスラエル政府が出している、ユダヤ人に大きく影響した人をまとめている「ゴールデンブック」という名簿の中に「杉原千畝」という名前が記されています。

また、イスラエルの主都テル・アビブには「杉原千畝通り」という名前も作られました。

日本と海外にある杉原千畝記念館

杉原千畝さんのことを後世に残すために、日本とリトアニアにそれぞれ杉原千畝記念館があります。

日本にある杉原千畝記念館

日本の岐阜県の八百津町に、杉原千畝についての展示をしている杉原千畝記念館があります。

日本人の来訪者はそこまで多くないようですが、毎年イスラエル人の来訪者がたくさんいるようです。

記念館に置いてある機械では、杉原千畝がビザを発給した人の名前を見ることができるようになっており、訪れた人の中では自分の両親や祖父母の名前を見つけ涙ぐむ人もいるそうです。

興味がある人はぜひ行ってみてください。

岐阜県の八百津町にある杉原千畝記念館の場所

リトアニアにある杉原千畝記念館

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バルト三国の一つであるリトアニアの第4の街カウナスには杉浦千畝記念館があります。

この記念館は杉原千畝が実際に命のビザを発給した場所です。

カウナスには杉原千畝さんにゆかりのある場所が千畝記念館以外にもいくつかあるので、カウナスに行く予定の人は下の記事を参考にして見てください。

リトアニアにある杉原千畝記念館の場所

杉浦千畝を題材とした映画とドラマ

杉原千畝を題材としたものは映画やテレビドラマにもなっています。

映画では唐沢寿明さん、テレビドラマでは反町隆史さんが杉原千畝を演じています。

興味がある人は見てみてください。

まとめ:杉原千畝はたくさんのユダヤ人を救った日本人

杉原千畝が行ったことについて歴史的背景から解説しました。

外務官という立場でありながら、目の前のユダヤ人たちのことを考え、国の命令を無視しビザを発給した。

こういった自分の信念を貫き行動する姿勢はなかなかできることではありませんね。

いつまでも覚えておきたい日本人の1人です。

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